實相寺の歴史

<實相寺の歴史>

實相寺は度重なる移転や昭和二十年の空襲による火災、また住職不在の時期などもあり、残念ながら今やその歴史を伝える物証はほとんど残っていません。しかしながら公的な古文書、資料などからおおよその様子をうかがい知ることが出来ます。


江戸時代後期、安政四年 (1857) に発行された『讃岐國名勝圖會』後編八冊の中、「巻之六上香川郡東中」の中で、實相寺は次のように記載されています。
「實相寺 天神前にあり廣福山と號す寺領七〇石、禅宗京都妙心寺末寺、本尊聖観音(弘法大師作) 鎮守社 (天照大神宮、八幡宮、金山大権現) 當寺開基未詳往古は淺野村にありて法昌寺と云う浄土宗寺院にてありけるを寛永年中 (※1) 今の東福寺の地に移し同十五年八月生駒高俊朝臣の夫人勝月院殿の御菩提所とす (※2) 生駒家除封の後無住なりしを國祖君水戸香林寺の前住少林を招請ありしかと少林京都妙心寺長興院へ移轉ありて院を附屬すべき法脉の者なかりしか後漸く當地に來りしかば法昌寺を御修造あり少林をして住せしめんとし玉ひしか程なく少林遷化ありければ少林遺跡相續の義命ありて萬治二年九月寺領を賜ひ今の宗に改む延寶元年 (※3) 今の地に移し其跡を東福寺に玉ふ三年十一月今の寺號に改む其後當寺焼失ありしも程なく再興せり」

※1 寛永年間は1624~44年 寛永十五年は1638年
※2 生駒高俊の正室は勝月院殿ではなく秋月院殿が正しい。
※3 『高松市史』、及び昭和39年松平公益会発行の『松平頼重傳』では、延享元年 (1744) と記載、延宝元年 (1673) は誤りと考えられます。

『讃岐國名勝圖會』後編よりこの『名勝圖會』が書かれた時点で、既に禅宗に改めた萬治二年 (1659) からも二百年が経過しているので、細かい点では誤った記述もありますが、松平藩政時代は比較的安定して大きな変化も無かったと考えられるので、当山ではこの資料が實相寺の歴史を知る上で最も古く、比較的正確なものだと考えています。

実は、この『讃岐國名勝圖會』後編八冊と続編五冊は全く流通しておらず、神保町の古書店で探しても「一度も見たことがない」という話なので、おそらく版木が作られなかったのだろうと考えられます。現存するのは多分手書きの原本のみで、香川県立図書館で許可を得ればコピーの閲覧が可能なだけです。
ただ幸いなことに昭和五年に活字出版された『古今讃岐名勝圖繪』 (梶原竹軒補訂、髙松製版印刷所) が後編、続編を網羅しているので、記載されている内容についてはそちらで確認することができます。

次に、昭和八年 (1933) に高松市が編纂した『高松市史』には「第三章 神社及宗教」の中で次のように記載されています。

「實相寺 三番丁 臨済宗妙心寺派 三番丁東福寺の地には實相寺即ち元の法昌寺といふがあったが法昌寺は其昔浄土宗で香川郡淺野村にあってその跡を今も實相寺山と呼んでいる。
寛永年中生駒氏が之を城下に移したが寛永十五年八月四日高俊公の夫人が亡くなられたので御遺骨をここに葬った。夫人は松平頼重公夫人皎月院の御姉姫で共に土井利勝の女であり、土井家は浄土宗である所からこの宗門で御追善あったものと思はれる。生駒家移封の後は無住であったが頼重公は水戸香林寺の前住少林和尚を招いて禅寺とせられた。少林は頼重が幼時京都に居たのを水戸へ召歸すよう頼房の母英勝院へ取成した名僧である。
延寶三年十一月二十一日法昌寺を改めて實相寺と號した。延享元年天神前大護寺の南今の明善高等女學校の地を賜ったこの邊は頼重公御隠棲の所で庫裏は公が御逝去の間の跡に當ると傳へられる。
大正四年十一月再び三番丁に移って東光寺へ合併した。天神前の寺跡には今も生駒壹岐守夫人秋月院香林淸感大禅尼 (※4) の五輪が殘ってゐる。」
※4 墓石には「秋月院殿香林清感禅尼」と刻す。現在当山では「秋月院殿香林清感禅定尼」と位牌をお祀りしている。
『高松市史』でも實相寺の前身の法昌寺が浅野にあった事が明記されていて、今も残る實相寺山がその跡地であることに言及されていますので、實相寺がかつて現在の香川町浅野にあった事は間違いないようです。

しかし「實相寺の前身である法昌寺を浅野から移転したはずなのに、どうして浅野に残った地名が實相寺なのだろうか」と疑問に思いませんか? この疑問には生駒氏が高松に城を築き、城下町を作っていった当時の状況を鑑みれば大体の想像がつきます。

現在の高松はかつて香東郡箆原(野原) という地名でした。天正十六年 (1588) 生駒親正が豊臣秀吉から讃岐一国十八万石を与えられ、播州赤穂六万石から入封してきます。生駒氏ははじめに引田城、次いで鵜足津 (宇多津) の聖通寺山城に入ったそうですがどちらも気に入らず、城作りの名人と名高い黒田如水に城の縄張りを依頼して新たに城を築き、高松城と名付けました。
高松城は西は険しい山、北は深い海、東は見通しの良い干潟に守られていたのですが、南からの守りを強化する為に作られたのが、三番丁から御坊町に繋がる寺町筋でした。お寺の塀は高く、門を閉めれば城壁となります。昭和4年生まれの先代住職は、戦前の三番丁で育ちましたが、幼い頃、お寺の回りの堀が迷路のようになっていて、鬼ごっこに好都合だった事を憶えています。そうした町作りも敵の襲来に備えての事だったのでしょう。生駒氏は高松城下を作るにあたって、讃岐のあちらこちらから寺院を高松に移転させていますが、その際、寺号や宗派を改めた寺院も少なくないようです。

どうやら法昌寺も浅野にあった時点では實相寺という寺号だった様ですが、寛永年間に三番丁に移転する際に法昌寺と改名し、浄土宗に改めたようです。
その根拠としては、昭和五年 (1930) に梶原竹軒 (猪之松) という人が、先出の『讃岐國名勝圖會』後編八冊、及び嘉永六年発行の前編七冊、更には続編五冊の全てを収録した上で、昭和初期の状況を書き加えた『古今讃岐名勝圖繪』が出版されていますが、その香川郡浅野村の實相寺については次のように記されているからです。
實相寺 真宗興正寺末元天台宗であったが天正年間兵燹に罹り慶長年間字上万塚に於て庵を結び爾後轉々明治十五年現在の地に於て寺跡を再興した。
これをみると天正年間 (1573~1592) に戦火 (おそらく長曽我部元親軍による侵攻でしょう) に遭った後、慶長年間 (1596~1615) に (場所を移して) 上万塚に小さな庵が建てられたとありますが、さらにその後も転々として行方が知れないようですから、明治十五年 (1883) に建てられた真宗興正寺派の實相寺と天正年間に焼失した天台宗の實相寺とは、直接関係がない事が判ります。
一方、慶長年間に焼失後は小庵だった實相寺を生駒氏が寛永年間に高松三番丁に移して再興、寺号と宗派を改めたと考える方が余程合理的ですので、浄土宗法昌寺の前身は天台宗實相寺で浅野にあったということになります。

次に大正四年に合併した東光寺についての資料を探してみると、やはり『名勝圖會』と『髙松市史』が詳しいようです。

後編の四年前、嘉永六年 (1853) に発行された『讃岐國名勝圖會』前編七冊「香川郡東上 巻之五下」で東光寺は次のように紹介されています。
『讃岐國名勝圖會』前編より「東光寺 三番丁にあり瑞明山 (※5) と号す 禅宗京都妙心寺末寺、本尊釈迦如来 薬師堂 (薬師如来慈覚大師作、肥前の國より流れきたりしゆゑ流薬師といふ) 、子安地蔵、辨財天女 (並びに弘法大師作) 、太子堂 (聖徳太子六才御像) 、庚申堂 (青面金剛一國一體にて天和二年攝州天王寺勧請免許状存せり)
當寺は天正年中十河民部大輔存保建立ありて菩提所となし龍雲寺といふ其後國祖君源英公の命によりて今の寺号に改む 天保十一年正月二十日焼失せしを嘉永年中再興せり當寺に十河家の位牌有
龍雲院殿義賢實存居士 (十河民部大輔存保 天正十四年丙戌十二月十二日申刻)
龍光院殿存親義道居士 (十河猪右衛門存親 天正十四年丙戌十二月十二日申刻)※6
十河家従士亡霊 (天正十四年十二月十二日於豊後國利光川戦死) 」

※5 当山では陽明山と伝承
※6 十河存親まさちかとは、十河一存かずまさ の庶子で、後に存保まさやすの家老となった十河存之 まさゆき の初名。


つぎに前出の『高松市史』の解説です。

左から十河存保、十河存親、千松丸の位牌「東光寺 三番丁 臨済宗妙心寺派
瑞明山と號く。境域四百七十二坪餘 本堂七間半ニ五間半 太子堂二間ニ三間 地蔵堂方一間 創立は十河存保というふ寺記によると往古木田郡十河村にあったが丸亀築城の時丸亀に移り其後髙松が城下になった時當地へ引いたとある。法泉寺の記録には元は高松城東喜多郷に在って龍雲寺といったが慶長三年生駒近正 (※7) 之を法泉寺の塔頭として此所に移し喜多郷の舊地を龍雲寺跡といひ東光寺跡ともいった。而して東光寺は延寶元年まで寺號を龍雲寺と呼んだが同年二月二十八日松平頼重致仕薙髪龍雲軒源英と號されるに及んで龍雲寺を改め東光院と號した同五年法泉寺塔頭を除いて京都妙心寺直末とし東光院を改め陽明山東光寺といったとある。 太子堂の聖徳太子の立姿の木像は一尺五寸で六才の御姿と申し久しく大工町に祀ってあったが元文三年當寺境内へ移したと云ふ。當寺に十河存保、存親及び豊後利光川で共に戦死した十河家従士の位牌がある。存保の諡號は龍雲院殿義賢實存居士と記されてゐる。」※7近正は親正の誤字。

どちらも山号が瑞明山と書かれていますが、当山では陽明山と伝わっているので、これは誤りだと考えられます。また前述の資料によれば、天正十四年 (1586) 十二月十二日の利光川 (戸次川) の合戦で戦死した十河存保と十河存親 (存之の初名) 、及び十河家家臣の位牌が江戸末期には在ったようですが、先代桃嶺和尚の記憶によれば昭和二十年七月の空襲で焼失したものの、戦前の實相寺には慈光院殿慶岩宗親大居士という位牌が存保の嫡男、千松丸の位牌として祀られており、存保、存親と供に利光川の合戦で戦死したとされていたようです。
しかしwikipediaに依れば、存保の息子、千松丸せんまつまるは幼少の為、利光川の合戦には実際参加しておらず、存保没後は生駒親正によって養育されていたようです。親正は十河家の領地二万石を没収し、千松丸には三千石しか与えせんでした。しかも千松丸は存保の遺言に従って秀吉に謁見後、まもなく病死したことから、千松丸は親正に毒殺されたとの噂もあったようです。 『高松市史』には、「天正十七年秋山田郡の農民納めざるを以て、 (生駒親正が) 首謀者数名を捕へて獄に投じ、之を西浜にて刑に処した」との記述があるのですが、千松丸が亡くなったのが天正十七年 (1589) 七月であることから、先述の千松丸暗殺説と十河家の領地であった山田郡の農民が生駒家に反抗した事とは、重大な関連があると思われます。
東光寺(当時は龍雲寺)が生駒親正によって高松城下に移されたのは、慶長三年 (1598) である事から、千松丸の位牌がそれ以前から十河家眷属によって祀られていた可能性が高いと思われます。
なお、龍雲寺が東光寺と寺号を改めたのは、松平頼重が隠居した際、龍雲軒源英と名乗った事によりますが、實相寺、東光寺共に頼重公と不思議とご因縁があったようです。