實相寺について

名  称陽明山實相寺 (ようめいざん じっそうじ)
宗  派臨済宗妙心寺派 (りんざいしゅう みょうしんじは)
本  尊聖観世音菩薩 (しょうかんぜおんぼさつ)
開  山少林宗訣禅師 (しょうりんそうけつぜんじ)
中興開基髙松藩初代藩主 松平頼重公
塔  所讃岐藩四代藩主 生駒高俊公正室
秋月院殿香林淸感禅定尼
菩提所十河城主 十河存保公
概要
 實相寺は達磨大師を初祖とする禅宗の一派で、京都・花園の妙心寺を大本山とする臨済宗妙心寺派に属する禅寺です。ご本尊は聖観世音菩薩をお祀りしています。
創建は不明で、かつては天台宗で香川郡浅野村にありましたが、16世紀後半の天正年間に戦火にて焼失。その後、17世紀前半の寛永年間に讃岐十八万石四代藩主、生駒高俊公によって高松三番丁に移転再興され、浄土宗に改宗、寺号を法昌寺と改めたようです。
 寛永十五年 (1638) 八月四日、高俊公のご正室、秋月院殿 (一説には小百合姫) が亡くなると法昌寺に葬り塔所としましたが、寛永十七年 (1640) 七月の「生駒騒動」により生駒家が出羽国矢嶋庄に移されたため法昌寺は一時衰退します。 寛永十九年 (1642) 五月に高松十二万石藩主として、松平頼重公が常陸国下館藩五万石より入封され、正保元年 (1644) 四月に老中土井利勝の娘、万姫をご正室に迎えられましたが、偶然にも万姫は秋月院殿の妹でありました。頼重公は法昌寺を修復し、水戸香林寺の住職であった少林宗訣禅師を迎えようとしますが、当時少林禅師は妙心寺塔頭長興院に住していたため、高松には来られないまま遷化されます。
萬治二年 (1659) 九月、法昌寺は頼重公より改めて寺領七十石を賜り、臨済宗妙心寺派に改宗し、義命により少林禅師の法嗣、南渓素信禅師を迎えました。
延宝三年 (1675) 十一月、山号寺号を廣福山實相寺と再び改めます。
 延享元年 (1744) 三代頼豊公は、實相寺を三番丁から天神前 (現在の英明高校の場所) のお下屋敷東南部に移されます。お下屋敷は頼重公が元禄八年 (1695) 四月十二日にお亡くなりになるまで十七年間住まわれた隠棲の地で、当時の實相寺書院は頼重公ご逝去の場所であると伝えられています。
 大正四年 (1915) 十一月、三番丁にあった十河存保公の菩提所、陽明山東光寺と合併。山号を廣福山から陽明山に改め、再び三番丁に移転します。
 昭和二十年 (1945) 七月四日、高松空襲により伽藍の一切を焼失しましたが、直ちに復興する資金もなく、昭和二十九年 (1954) 桜町に仮移転します。
 その後、東光寺開基十河家の末裔である三木氏のご支援を契機として、当山十九世桃嶺和尚が實相寺復興に奔走、昭和五十三 (1978) 年十一月、三谷町に伽藍を復興整備しました。
 平成二十年 (2008) 十一月、二十世閑岳文匡和尚が住職に就任、實相寺にとっては創建以来始めての世襲住職が誕生し、現在は壇信徒のみならず、広く社会に貢献できるお寺をめざして活動しています。

行き方

實相寺
〒761-0450 香川県高松市三谷町1811番地1 [Google Maps]
臨済宗妙心寺派 陽明山實相寺
TEL : 087-889-3838 / FAX : 087-889-3858

實相寺へのアクセス
高松駅~實相寺は車で25~35分
高松空港~實相寺は車で20~25分
高松中央I.C.~實相寺は車で約10分
高松西I.C.~實相寺は車で約20~30分

マップ

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『讃岐國名勝圖會』前編七冊

實相寺の歴史

實相寺は度重なる移転や昭和二十年の空襲による火災、また住職不在の時期などもあり、残念ながら今やその歴史を伝える物証はほとんど残っていません。しかしながら公的な古文書、資料などからおおよその様子をうかがい知ることが出来ます。

江戸時代後期、安政四年 (1857) に発行された『讃岐國名勝圖會』後編八冊の中、「巻之六上香川郡東中」の中で、實相寺は次のように記載されています。
「實相寺 天神前にあり廣福山と號す寺領七〇石、禅宗京都妙心寺末寺、本尊聖観音(弘法大師作) 鎮守社 (天照大神宮、八幡宮、金山大権現) 當寺開基未詳往古は淺野村にありて法昌寺と云う浄土宗寺院にてありけるを寛永年中 (※1) 今の東福寺の地に移し同十五年八月生駒高俊朝臣の夫人勝月院殿の御菩提所とす (※2) 生駒家除封の後無住なりしを國祖君水戸香林寺の前住少林を招請ありしかと少林京都妙心寺長興院へ移轉ありて院を附屬すべき法脉の者なかりしか後漸く當地に來りしかば法昌寺を御修造あり少林をして住せしめんとし玉ひしか程なく少林遷化ありければ少林遺跡相續の義命ありて萬治二年九月寺領を賜ひ今の宗に改む延寶元年 (※3) 今の地に移し其跡を東福寺に玉ふ三年十一月今の寺號に改む其後當寺焼失ありしも程なく再興せり」
※1寛永年間は1624~44年 寛永十五年は1638年
※2生駒高俊の正室は勝月院殿ではなく秋月院殿が正しい。
※3『高松市史』、及び昭和39年松平公益会発行の『松平頼重傳』では、延享元年 (1744) と記載、延宝元年 (1673) は誤りと考えられます。
『讃岐國名勝圖會』後編より この『名勝圖會』が書かれた時点で、既に禅宗に改めた萬治二年 (1659) からも二百年が経過しているので、細かい点では誤った記述もありますが、松平藩政時代は比較的安定して大きな変化も無かったと考えられるので、当山ではこの資料が實相寺の歴史を知る上で最も古く、比較的正確なものだと考えています。
実は、この『讃岐國名勝圖會』後編八冊と続編五冊は全く流通しておらず、神保町の古書店で探しても「一度も見たことがない」という話なので、おそらく版木が作られなかったのだろうと考えられます。現存するのは多分手書きの原本のみで、香川県立図書館で許可を得ればコピーの閲覧が可能なだけです。
ただ幸いなことに昭和五年に活字出版された『古今讃岐名勝圖繪』 (梶原竹軒補訂、髙松製版印刷所) が後編、続編を網羅しているので、記載されている内容についてはそちらで確認することができます。
次に、昭和八年 (1933) に高松市が編纂した『高松市史』には「第三章 神社及宗教」の中で次のように記載されています。
「實相寺 三番丁 臨済宗妙心寺派
三番丁東福寺の地には實相寺即ち元の法昌寺といふがあったが法昌寺は其昔浄土宗で香川郡淺野村にあってその跡を今も實相寺山と呼んでいる。
寛永年中生駒氏が之を城下に移したが寛永十五年八月四日高俊公の夫人が亡くなられたので御遺骨をここに葬った。夫人は松平頼重公夫人皎月院の御姉姫で共に土井利勝の女であり、土井家は浄土宗である所からこの宗門で御追善あったものと思はれる。生駒家移封の後は無住であったが頼重公は水戸香林寺の前住少林和尚を招いて禅寺とせられた。少林は頼重が幼時京都に居たのを水戸へ召歸すよう頼房の母英勝院へ取成した名僧である。
延寶三年十一月二十一日法昌寺を改めて實相寺と號した。延享元年天神前大護寺の南今の明善高等女學校の地を賜ったこの邊は頼重公御隠棲の所で庫裏は公が御逝去の間の跡に當ると傳へられる。
大正四年十一月再び三番丁に移って東光寺へ合併した。天神前の寺跡には今も生駒壹岐守夫人秋月院香林淸感大禅尼 (※4) の五輪が殘ってゐる。」
※4墓石には「秋月院殿香林清感禅尼」と刻す。現在当山では「秋月院殿香林清感禅定尼」と位牌をお祀りしている。

五輪塔

『高松市史』でも實相寺の前身の法昌寺が浅野にあった事が明記されていて、今も残る實相寺山がその跡地であることに言及されていますので、實相寺がかつて現在の香川町浅野にあった事は間違いないようです。
しかし「實相寺の前身である法昌寺を浅野から移転したはずなのに、どうして浅野に残った地名が實相寺なのだろうか」と疑問に思いませんか?この疑問には生駒氏が高松に城を築き、城下町を作っていった当時の状況を鑑みれば大体の想像がつきます。
現在の高松はかつて香東郡箆原(野原) という地名でした。天正十六年 (1588) 生駒親正が豊臣秀吉から讃岐一国十八万石を与えられ、播州赤穂六万石から入封してきます。生駒氏ははじめに引田城、次いで鵜足津 (宇多津) の聖通寺山城に入ったそうですがどちらも気に入らず、城作りの名人と名高い黒田如水に城の縄張りを依頼して新たに城を築き、高松城と名付けました。
高松城は西は険しい山、北は深い海、東は見通しの良い干潟に守られていたのですが、南からの守りを強化する為に作られたのが、三番丁から御坊町に繋がる寺町筋でした。お寺の塀は高く、門を閉めれば城壁となります。昭和4年生まれの先代住職は、戦前の三番丁で育ちましたが、幼い頃、お寺の回りの堀が迷路のようになっていて、鬼ごっこに好都合だった事を憶えています。そうした町作りも敵の襲来に備えての事だったのでしょう。生駒氏は高松城下を作るにあたって、讃岐のあちらこちらから寺院を高松に移転させていますが、その際、寺号や宗派を改めた寺院も少なくないようです。
どうやら法昌寺も浅野にあった時点では實相寺という寺号だった様ですが、寛永年間に三番丁に移転する際に法昌寺と改名し、浄土宗に改めたようです。
その根拠としては、昭和五年 (1930) に梶原竹軒 (猪之松) という人が、先出の『讃岐國名勝圖會』後編八冊、及び嘉永六年発行の前編七冊、更には続編五冊の全てを収録した上で、昭和初期の状況を書き加えた『古今讃岐名勝圖繪』が出版されていますが、その香川郡浅野村の實相寺については次のように記されているからです。

實相寺 真宗興正寺末元天台宗であったが天正年間兵燹に罹り慶長年間字上万塚に於て庵を結び爾後轉々明治十五年現在の地に於て寺跡を再興した

これをみると天正年間 (1573~1592) に戦火 (おそらく長曽我部元親軍による侵攻でしょう) に遭った後、慶長年間 (1596~1615) に (場所を移して) 上万塚に小さな庵が建てられたとありますが、さらにその後も転々として行方が知れないようですから、明治十五年 (1883) に建てられた真宗興正寺派の實相寺と天正年間に焼失した天台宗の實相寺とは、直接関係がない事が判ります。
一方、慶長年間に焼失後は小庵だった實相寺を生駒氏が寛永年間に高松三番丁に移して再興、寺号と宗派を改めたと考える方が余程合理的ですので、浄土宗法昌寺の前身は天台宗實相寺で浅野にあったということになります。

次に大正四年に合併した東光寺についての資料を探してみると、やはり『名勝圖會』と『髙松市史』が詳しいようです。

後編の四年前、嘉永六年 (1853) に発行された『讃岐國名勝圖會』前編七冊「香川郡東上 巻之五下」で東光寺は次のように紹介されています。

『讃岐國名勝圖會』前編より 「東光寺 三番丁にあり瑞明山 (※5) と号す 禅宗京都妙心寺末寺、本尊釈迦如来 薬師堂 (薬師如来慈覚大師作、肥前の國より流れきたりしゆゑ流薬師といふ) 、子安地蔵、辨財天女 (並びに弘法大師作) 、太子堂 (聖徳太子六才御像) 、庚申堂 (青面金剛一國一體にて天和二年攝州天王寺勧請免許状存せり)
當寺は天正年中十河民部大輔存保建立ありて菩提所となし龍雲寺といふ其後國祖君源英公の命によりて今の寺号に改む 天保十一年正月二十日焼失せしを嘉永年中再興せり當寺に十河家の位牌有
龍雲院殿義賢實存居士 (十河民部大輔存保 天正十四年丙戌十二月十二日申刻)
龍光院殿存親義道居士 (十河猪右衛門存親 天正十四年丙戌十二月十二日申刻) ※6
十河家従士亡霊 (天正十四年十二月十二日於豊後國利光川戦死) 」
※5当山では陽明山と伝承
※6十河存親 (まさちか) とは、十河一存 (かずまさ) の庶子で、後に存保 (まさやす) の家老となった十河存之 (まさゆき) の初名。

つぎに前出の『高松市史』の解説です。

左から十河存保、十河存親、千松丸の位牌 「東光寺 三番丁 臨済宗妙心寺派
瑞明山と號く。境域四百七十二坪餘 本堂七間半ニ五間半 太子堂二間ニ三間 地蔵堂方一間 創立は十河存保というふ寺記によると往古木田郡十河村にあったが丸亀築城の時丸亀に移り其後髙松が城下になった時當地へ引いたとある。法泉寺の記録には元は高松城東喜多郷に在って龍雲寺といったが慶長三年生駒近正 (※7) 之を法泉寺の塔頭として此所に移し喜多郷の舊地を龍雲寺跡といひ東光寺跡ともいった。而して東光寺は延寶元年まで寺號を龍雲寺と呼んだが同年二月二十八日松平頼重致仕薙髪龍雲軒源英と號されるに及んで龍雲寺を改め東光院と號した同五年法泉寺塔頭を除いて京都妙心寺直末とし東光院を改め陽明山東光寺といったとある。
太子堂の聖徳太子の立姿の木像は一尺五寸で六才の御姿と申し久しく大工町に祀ってあったが元文三年當寺境内へ移したと云ふ。當寺に十河存保、存親及び豊後利光川で共に戦死した十河家従士の位牌がある。存保の諡號は龍雲院殿義賢實存居士と記されてゐる。」※7近正は親正の誤字。

どちらも山号が瑞明山と書かれていますが、当山では陽明山と伝わっているので、これは誤りだと考えられます。また前述の資料によれば、天正十四年 (1586) 十二月十二日の利光川 (戸次川) の合戦で戦死した十河存保と十河存親 (存之の初名) 、及び十河家家臣の位牌が江戸末期には在ったようですが、先代桃嶺和尚の記憶によれば昭和二十年七月の空襲で焼失したものの、戦前の實相寺には慈光院殿慶岩宗親大居士という位牌が存保の嫡男、千松丸の位牌として祀られており、存保、存親と供に利光川の合戦で戦死したとされていたようです。
しかしwikipediaに依れば、存保の息子、千松丸 (せんまつまる) は幼少の為、利光川の合戦には実際参加しておらず、存保没後は生駒親正によって養育されていたようです。親正は十河家の領地二万石を没収し、千松丸には三千石しか与えせんでした。しかも千松丸は存保の遺言に従って秀吉に謁見後、まもなく病死したことから、千松丸は親正に毒殺されたとの噂もあったようです。
『高松市史』には、「天正十七年秋山田郡の農民納めざるを以て、 (生駒親正が) 首謀者数名を捕へて獄に投じ、之を西浜にて刑に処した」との記述があるのですが、千松丸が亡くなったのが天正十七年 (1589) 七月であることから、先述の千松丸暗殺説と十河家の領地であった山田郡の農民が生駒家に反抗した事とは、重大な関連があると思われます。
東光寺(当時は龍雲寺)が生駒親正によって高松城下に移されたのは、慶長三年 (1598) である事から、千松丸の位牌がそれ以前から十河家眷属によって祀られていた可能性が高いと思われます。
なお、龍雲寺が東光寺と寺号を改めたのは、松平頼重が隠居した際、龍雲軒源英と名乗った事によりますが、實相寺、東光寺共に頼重公と不思議とご因縁があったようです。

花園会について

臨済宗妙心寺派では、花園法皇さまの「報恩謝徳の思い、興隆仏法の志し」という『御宸幹』の精神に基づき、妙心寺派寺院壇信徒のつどいを「花園会」と名づけ、各種の宗教活動を行っています。
花園会は本山の「花園会本部」を頂点に、各教区宗務所の「教区花園会」、各宗務支所の「部花園会」、その下に各末寺の「寺院花園会」が位置づけられるピラミッド構造になっています。實相寺でも「實相寺花園会」を結成しており、当山の宗教活動の中心的存在となっています。
また各花園会では「女性部」「青壮年部」といった部活動も行われており、当山でも「女性部」は少人数ながら結成され、お寺の行事に欠かせない存在として活躍して下さっています。

主な年中行事

1月1日

午前0時

修正会(しゅしょうえ)、
及び除夜の鐘
大晦日から元旦にかけて、過ぎゆく一年に感謝し、来るべき一年の平穏を祈念しての法要。女性部のお手伝いを頂いて、参拝者には年越しそばが振る舞われます。
4月中旬 施餓鬼会(せがきえ)、並びに花園会総会 春の会員総供養、及び年一回の花園会総会、本山布教師さんのご法話があります。
施餓鬼会(せがきえ) 施餓鬼会(せがきえ)
8月第1

日曜日

境内大掃除、秋月忌 お盆を前に会員皆様による境内の清掃を行います。また清掃後、参加者全員で8月4日がご命日の秋月院殿さま(生駒家四代高俊公正室)のお墓にお参りをします。

8月24日頃 地蔵盆 お地蔵さまの縁日である24日付近の日曜日、午後6時より会員やご近所の子供達を招いて「子育て地蔵尊」にお参りします。

その後バーベキューや花火で楽しみます。

花園会有志の会員さん、女性部の皆さんに大変お世話になっています。

11月23日 達磨忌(達磨忌) 秋の会員総供養、法要後、布教師さん又は住職の法話があります。
達磨忌 達磨忌
毎日曜日

午前7時

坐禅会 どなたでも参加できます。詳しくは坐禅会のページへ
随時 写経会 以前は月一回開催していましたが、参加者が少なく現在は休会中です。坐禅は苦手だけれども写経は興味があるという方、坐禅会の時間帯に書院で写経をして頂くことも可能です。ご希望の方はお気軽にお問い合わせください。

その他の花園会活動

年一度 「総会資料」の送付 総会での「前年度事業報告、決算書と新年度事業計画、予算書」などの資料と会費振込用紙を欠席者の方に郵送しています。
毎月 『花園』誌の送付 本山発行の冊子『花園』誌を毎月郵送しています。妙心寺派の年度教化テーマや本山のご様子などをお伝えしています。
毎月 「實相寺花園会報」の送付 實相寺発行の会報を毎月『花園』誌に同封しています。實相寺の近況や会員のご紹介、住職の四方山話などをお伝えしています。
随時 本山団体参拝 ご本山への団体参拝を「香川臨済宗青年僧の会」が主体となって実施しています。
随時 花園会本部事業 妙心寺花園会本部では、会員ご家族さまの百寿、喜寿、成人、お誕生などの各種お祝いや災害時の見舞金など花園会員への種々福利厚生事業を行っています。また年二回の『花園会報』発行をはじめ、少年少女研修会、夏期講座、花園会役員研修会など様々な教化活動も行っています。そうした妙心寺本部で企画運営されている花園会活動を實相寺花園会の皆様にお伝えしています。